ありとあらゆる病気で苦しんだ子供時代
東京の下町育ちの私は、公害などのせいか、小さい頃から気管支喘息、アトピー性皮膚炎、アレルギー性鼻炎、貧血などのありとあらゆる病気で苦しんでいました。
アレルギー性鼻炎のせいで一日中鼻をかんでいるので、ティッシュが手放せず、ティッシュボックスを学校の机の上に置き、一日一箱を使い切っていました。
いつも鼻をかんでいるので、風邪になっても気が付きません。他の人が、口ではなく鼻で息をすると言う当たり前のことも、高校生になるまで知りませんでした。
気管支喘息は特に辛く、その症状をたとえていうなら、長時間首を絞められたまま、一生懸命息をしなければならないような状態です。一回一回呼吸をするのに満身の力を込めて息を吸わなければいけないなんて想像できますか?
それがあまりにも長く続くと、小学生ながらもあまりの辛さに「もうこのまま死んでもいいかな、息をするの疲れた。もう一回だけ息をしてもうやめよう。」と、思う事もたびたびありました。
母は私の手を両手でさすりながら「代われるものなら代わってやりたい。」と、いつも言っていました。その母のしわだらけの手の、かさかさした感触を今でも覚えています。
色白が自慢の私でしたが、アトピー性皮膚炎とも戦っていました。
でもこの頃は症状はまだ軽く、時々かゆくなる程度でした。
外に出たくない、人に会いたくない、鏡も見たくない
高校生になった頃、私にも好きな人が出来ました。
口数が少なく、いつも野球ばかりしていた彼の試合を私は必ず応援に行っていました。
やがて私たちは少しずつ言葉を交わすようになり、私の「がんばってー!」という掛け声に、いつもにこにこと応えてくれました。
その内、彼が仲間と別々に帰る時は、私を近くの駅まで送ってくれる事ようになりました。
そして私たちはつきあうようになったのです。彼は「色白のゆみちゃんが好きだ」といつも言ってくれました。私達はいつしか同じ将来を夢見るようになりました。
そんな関係が半年も過ぎ、季節も春になる頃、軽かった私のアトピーも、少しずつ酷くなっていきました。痒くて痒くてしようがなく、掻かないように我慢するのですが、我慢しきれなくなり、血が出るまで掻きむしることが何度もありました。やがて私の自慢の色白の肌も、間接の内側などの皮膚の色はどんどん、どす黒くなっていきました。
私は自分のせいではない、身体の事で、なんでこんな思いをしなければならないのだろうと怒りとも悲しみともつかない思いを抱くようになりました。
ともかく外に出たくない。人と会いたくない。鏡も見たくない。
私にはもうこれっぽっちの自信もありませんでした。
いつの日からか、私は彼とさえ、会いたくなくなっていました。
そんな私たちが上手くいくはずもありません。
夏が来る前に、私たちは別々の道を歩き始めていたのです。
それから何度か、ふたりが昔のように楽しそうに話をしている夢をみましたが、私達が笑い合う事は、もう夢の中でしか、ありませんでした。
私はもう二度と恋はしないと誓いました。
私を変えたエステとの出会い
それからしばらくたつと、あんなに嫌だったアトピーも自然と少しずつ治ってきました。アトピーは治ったのですが肌の乾燥は治らずに、かさかさ、シワシワの肌になってしまい、相変わらず暗い毎日を送っていました。いい加減どうにかしなくてはと、高校生活も終わりに近づいたある日、私は家の近くのエステティックサロンに通い始めました。
肌が少しでも綺麗になればと思ってのことでしたが、正直そんなに期待はしていませんでした。
しかし2か月も通ううちに、気のせいかかさかさ、シワシワの肌がふっくらと、弾力のある肌に変わっていったのです。
そうなると、引きこもりがちだった私も毎日が楽しくなって来ました。段々と友達の誘いにも喜んで行くようになりました。
エステサロンって、こんなに効果があったんだ!
私はいつのまにか、エステおたく、になっていました。
ありとあらゆる病気で苦しんだ子供時代
大人になった私は、ウォーキングインストラクターなど、女性相手の仕事をしていましたが、エステの魅力にはまっていた私は、「今度は悩んでいる人の肌を私が綺麗にしてあげるんだ!」と、仕事をやめてとうとう銀座に自分のエステサロン美顔屋を開いてしまいました。
あの頃はともかく綺麗にさえなれば、みんな幸せになれると信じていました。そんな使命に燃えていた私は、朝は整体学校、昼はエステティシャン、夜はエステの勉強や新しいメニュー作り、集客の勉強など朝から夜中まで寝る間を惜しんで働いていました。
当時私は、整体で学んだ骨格矯正の技術と、エステティックスクールで学んだフェイシャルのメニューを合わせた骨格矯正フェイシャルを編み出し、サロ ンの人気メニューとなっていました。従来のエステサロンのように機械も使わず、ハンドだけで行う骨格矯正小顔フェイシャルは、口コミで広がり、遠くからお 客様も来るようになりました。
施術で使う化粧品やパックは市販の大手化粧品のものに比べれば効果がはっきりわかりました。 まあ、効果がわからなければお客様もわざわざエステにはこないのであたりまえですが、 最初はその効果にわくわくしていました。
でもだんだん欲が出てきて、リフトアップクリームなのに効果がもっと出ないのか? ただ引きあがるだけじゃなくて、もっと肌が元気になるものが欲しい。 などとどんどん欲求が高まってきました。 もう、今ある化粧品じゃあ満足できなくなっていたのです。
そのころ私は一日中つぶやいていました。
本当に満足いくようなどこにもない最高の化粧品が欲しい。 いったいどこにあるんだろう。。。
大手の化粧品ではキレイになれない
そんな時久しぶりに昔の友人から連絡がありました。彼は大手の化粧品を扱う工場で働いていました。私はその友人に疑問に思っていた事をきいてみました。
「ねえ、あなたの所の化粧品ってさ、結構宣伝してるけど、効果がなんかイマイチだと思わない?」
何かしらの言い訳を期待していた彼の口から出た言葉に私は驚きました。
「そりゃそうだよ。大手は効くもんなんてつくらないよ、何かあったら大変だからね。
入れる成分なんてほとんど同じ。後はイメージ広告でイメージアップさせて、商品名を有名にして売っていく売り方なんだから。」
私はあまりの答えに驚きました。
やっぱりそうだったのか。でもお客さんに夢を売るだけ売って、中身に力を入れず
にいるなんておかしい!
これは違う!!
自分でつくるしかない
お客様に本当に満足してもらいたい。
昔の私のような悲しい思いはしてほしくない。
綺麗になって幸せになってほしい。
私は自分で本当に満足のいく化粧品を作ることにしました。
しかし、自分で化粧品を一から作るということは思ったよりも大変なことでした。
それを知った両親は大反対でした。
「もうエステなんて、化粧品なんて、不安定な仕事はやめて結婚しなさい。」と。
でも私は本当に満足のいく化粧品を作りたかった。
少しの人にでも、私と同じ肌で悩んでいる人に本物を使ってあげたかった。
それからは、毎日毎日工場の人との戦いのような日々が始まりました。
たとえば、原料を混ぜる時、防腐剤を入れずに化粧品を作るのはとても嫌がります。
防腐剤が入っていれば製造過程で少しの菌が入ってしまっても、1,2日で菌が消滅しますが、防腐剤が入っていないと菌が増えてしまうかもしれないのです。もし防腐剤の入っていない商品の中に、菌がひとつでも入っていた場合すべての商品を破棄しなければなりません。ですから製造工場は防腐剤を入れない化粧品を作りたがりません。しかし私は、手間がかかったとしても肌によく栄養分のたっぷり入った化粧品をどうしても作りたかったのです。
そして納得のいく化粧品を作るため何度も工場と話し合いをしました。
そして2年後、ついに完成、口コミで人気に
そして2年後、ついに私の納得のいく化粧品が出来上がったのです。
そうして最初はエステサロンの施術で使っていましたが、お客様に喜ばれ、自宅でも
使えるようにとのご希望で市販出来る形にしました。
化粧品は口コミで広がり、それを偶然手にした外国人がわざわざ私に会いに外国からやって来ました。その方は化粧品にほれ込み、ぜひこの化粧品を私に扱わせてほしいと、タイに私の名前「YUMIKO」の化粧品ブランドを作ってしまったほどです。
また日本国内でも沢山の方々にご紹介戴くようになりました。
あなたに幸せになってもらいたい
私は今でも思い出すことがあります。自信がなくて落ち込んでいたあの日の私を。
私は、この化粧品を使ってくれた人が、今よりさらに、楽しく幸せになってくれることを願っています。